MHKは果たして失敗だったのか?

松本人志(以下敬称略)のNHKでの初のコント番組「MHK」、少なくとも僕がtwitterでフォローしてる人の間では好意的な意見は殆どみられなかった。たしかにかつての鋭さのようなものは鈍っているように感じた。ただ、この番組自体の方向性には意図的な部分もあったのではないかと思う(ちなみに翌日に放送されたドキュメンタリーは観てません。番組の裏側には個人的にあまり興味がないのと、コントそのものより番組時間が長いというのがちょっと解せなかったので)。

松本は基本的に「空気を読むのが上手い人」だと思う。「空気を読む」というのは砕けていえば「その時のシチュエーション(相手)に合わせて的確で面白いリアクションができる能力」のことで、その「お笑い反射神経」はかつて(初期の漫才から「ガキの使い」でのフリートーク全盛期まで)は世界最速を誇っていたと思う。最近でも、たまに見る「ダウンタウンDX」での出演者との当意即妙なやりとりからは、かつてほどではないものの、未だにその「神経」の筋肉の強度が失われていないことがわかる。だから僕の解釈では「MHK」は「NHKという空気」を彼が「読みすぎて」しまった結果なのではないかと思う。

そもそも「NHK」と「お笑い」はどうも相性が悪いという印象がある。イギリスのBBCでいう「Monty Python」的なノリを許さない(昔NHKでも再放送してたけど)という「お堅さ」が目に見えないけれどもどこかに存在している。たとえば人気コント番組「サラリーマンNEO」に漂うあまりにカッチリ作りすぎていて逆に息苦しさを覚える生真面目さ(そこを好む人もいると思うけど)、「爆笑オンエアバトル」や「着信御礼!ケータイ大喜利」での番組構成そのもの及びアナウンサー陣の固さ(後者は司会の今田耕司がそこに突っ込みを入れることで自虐的な笑いが生まれているけれど)など、破綻、乱調、ハプニング性を回避するために、枠組みをきっちり作りすぎていて、意外性から引き起こされる本能に直結する類の爆発的な「笑い」を生み難い空気がある。公共放送で「あらゆる年齢層が視聴する」という立場を考えると自然とそのような姿勢になってしまうのはわかるのだけど、少なくとも松本人志の瞬発的な「笑い」とは相性が悪いということだけははっきりしている。

今回の「MHK」はそのNHK側特有の体質に松本が「空気を読んで」合わせてしまったのではないだろうか。その結果、彼特有の「毒」は薄められ、初期「ごっつええ感じ」の頃にあったなカオチックなまでのエネルギーもなければ、後期「ごっつ」で顕著だった「哀愁」的なものの掘り下げも中途半端に終わってしまっているという印象だった。もちろん、通常のNHKでのコメディ/コント番組に比べると異端ではあるし、松本のお笑いに元々嫌悪感を抱いてそうな高年齢の視聴者層には比較的わかりやすくて楽しめる内容ではあったのかもしれない。そしてそこへのアピールこそがこの番組の目的だったのかもしれない(ここら辺、ドキュメンタリーを観ていれば憶測の域からもう一歩広げられた気もしますが)。

活動歴の長いミュージシャンの音楽遍歴を見てもわかるとおり、人は年をとるとそれ相応の変化をしていくもので、松本の表現する「笑い」の質や方向性にも変化が起こるのは当然だし、おそらく日本で90年代に「お笑い」という表現そのものの価値の見直しと促進を促した一人であるとはいえ、いつまでもその過去の栄光と比較されるのは酷といえば酷な話ではある。ただ、それなら「NHK」とか「映画」といった「お笑い」の外側にある「枠」の中に合わせてしまうのではなく、もっと原点に立ち返ってシンプルに「お笑い」をやってしまえばいいのに、とも思う。例えば、同じ2時間でも「しんぼる」や「大日本人」よりも、「ガキ使」の浜田とのフリートークや「ダウンタウン汁」での「お笑い頭脳バトル」のような、無から何か新しいものを生み出していく即興的なスタイルの方が、(本人はともかく)観ている側としては面白いし、そういうシチュエーションでこそ彼の「空気を読む」能力が一番発揮されるのではないかと思う。例えば、今なら「IPPONグランプリ」の優勝者、バカリズムとの「ガチンコ大喜利対決」なんてどうだろう。別に勝敗云々はどうでもいいのだけど、そこからどれだけの刺激的な「笑い」が瞬発的に生まれてくるのか、ただそれが見てみたい。

横山ヤスシがかつて彼らの漫才を見て「ただのチンピラの立ち話やないか」と言ったことに対して松本は「チンピラの話を聞いたら面白かった。それの何が悪い」と後に反論している。その地点に一旦戻ってみることはできないだろうか。